檸檬と紅茶

追憶と彷徨。瞼には甘い囁きを。

チェロとわたし

突然だが、わたしはチェロを持っている。なんだったら少しばかり弾くこともできる。
現在、アパートに住んでいるため家での音出しができないので何年間か楽器ケースに閉まったままの状態が続いていたが、今年の6月から週に一回、近所の公民館で部屋を借りて2~3時間ほど練習をしている。
 しかし、別にチェロが趣味という訳ではないし、たまにどうして自分がこの楽器を弾いているのか不思議に思う時がある。

思い返せばチェロとの出会いは私立大学1年生のときであった。
夏休みであったと思うが、国立大学に通う2学年上の姉がかつて所属していたオーケストラサークルでチェロパートの同期に自分のパートの1年生が早々に辞めてしまい人数が足りないので妹さん入団してくれたりしないだろうか…と相談を持ち掛けられたという話を聞き、それであれば見学してみたいと姉に伝えたのが始まりだった。
 見学してみたいと自分から言ったものの、入団する気など毛頭無く地元で一番偏差値の高い某国立大学のサークル会館に行ってみたいとかそんな軽い気持であったと思う。
見学日当日、姉に声を掛けてくれたチェロパートの同期(以下T先輩)の積極的な勧誘にすっかりやる気になり入団を決意した…なんていうことは決して無く、人見知りで口下手のT先輩は特にサークルの説明をするわけでもなく黙って立っており、ついてきてくれた姉が見かねて代わりに説明をしていた。自分からはしゃべらないT先輩、なんで私が勧誘しているのだろう?という様子の姉、T先輩のことを言えないくらい人見知りの私、の三人で間が持たなくなるのに長い時間がかかることはなかった。いよいよ間が持たなくなり沈黙が場を支配し始めていた時、早くこの場所から脱出したいと思った私が放ったのは「あの…もう帰ります…」の一言であった。
 それから一ヵ月ほど悩み結局は入団することに決めたのであった。入団するに至った要因は?と聞かれると未だによくわからない。自分の通っていた私立で女子大の閉塞的な雰囲気に息詰まりを感じ始めていたからなのか、共学で国立大学のサークルに入れば彼氏ができるかもしれないと思ったからなのか、はたまた入ってくれないかと「人様から誘ってもらえる」という事が自分のそれまでの人生でほぼ皆無であったからなのか…とにかく私は今まで一回も触ったことすらないチェロを始めることになった。紆余曲折、辞めようと思ったことは数えきれないほどあったが、現在も私は細々とチェロを弾いている。


 チェロを始めた当時から現在に至るまで練習メニューは毎回同じである。まず初めにチューニング(楽器の音程合わせ)を行い開放弦でロングトーン。2番目に音階の練習2~3セット行い、3番目にウェルナー(初心者向けの教本)の練習曲を弾き、最後にオーケストラ曲のチェロパート部分を練習する。大学1年生からチェロを始めて早くも10年が経とうとしているが、大学卒業後全く楽器に触れない時期もあったことから相変わらず下手糞なままである。しかし、数年間放ったらかしにしていても、再びケースを開ける瞬間まで変わらず存在してくれていた。今年の6月にチェロの練習を再開した時には音程が取れず2番目に行っている音階の練習すらままならいほどであったが3ヵ月程たった現在では音もとれるようになり、ゆっくりではあるが確実に前進しているのを毎週感じている。現在、社会人として「会社」というコミュニティに属し、3歩進んだと思えば2歩下がる時もあれば、周りと比較をして自分を見失いそうになる時もある。それでも左手で弦を抑え右手に持った弓で弦を擦ればチェロは音を出してくれる。私が発した私自身の音なのだ。誰と競う訳でも比べあう訳でもない。自分のペースで少しずつ前に進むことが出来る。チェロを弾いているときは会社の一員ではなく、間違いなく「私自身」なのである。そんな事に最近気が付いた訳ではあるけれど、もしかしたら近い未来、仕事に追われたりとかでまたケースに楽器を閉じ込めてしまう予感がしなくもないので、やはり趣味という位置づけにチェロを置く気にはなれない。それでも末永く彼(チェロ)とつかず離れずの関係を続けていきたいと思う。